岡田将平、比嘉展玖
太平洋戦争末期の沖縄戦の戦没者を悼む「沖縄慰霊の日」の23日、広島でも祈りが捧げられた。多くの住民を巻き込んだ地上戦と原爆という惨禍。沖縄とつながり、平和のあり方を考える人たちもいる。(岡田将平、比嘉展玖)
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広島市の原爆ドームの対岸にある親水テラス。この日、沖縄出身者らの集いがあり、沖縄県中城村(なかぐすくそん)出身で広島沖縄県人会顧問の中村盛博さん(71)=同市安佐北区=が三線(さんしん)を響かせ、沖縄戦の犠牲者を悼んだ。
中村さんは沖縄民謡のほか、父・盛鴻(せいこう)さんが自らの体験を元に作詞した「戦場(いくさば)の口説(くどぅち)」を披露した。詞は「何時(いつ)も忘れぬ 酉(とり)年の 四月朔日(ついたち) アメリカの 北谷・砂浜に 上陸し」で始まる。
1945年4月1日、米軍が沖縄本島中部に上陸すると、中部で暮らしていた父は、弾丸が降り注ぐなか、一家6人で逃げた。食べるものがなく苦しみ、墓のなかに隠れながら、南部を目指した。6月20日、南部の海岸で米軍に捕らえられ、生きながらえた。最後は「又(また)と戦(いくさ)の 無いらぬ如(ごとく) 世界平和ど 願い侍(はべ)ら」(二度と戦争のないように 世界平和を願います)で終わる。
中村さんは米軍の占領下の時代に生まれ、復帰前の1968年、大学進学を機に広島に移った。県人会で三線の講師をしながら、この口説を歌い続けてきたという。「新型コロナで広島と沖縄を結ぶ機会が制限されているが、今日は沖縄戦の歴史を知り、同じく大きな戦禍を経験した広島と沖縄がお互いに理解を深められる日になってほしい」
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル